企画展 琵琶 ~こころとかたちの物語(2)~企画展 琵琶 ~こころとかたちの物語(2)~

企画展 琵琶 ~こころとかたちの物語(2)~

第2章 日本における琵琶音楽の展開

7~8世紀に日本へ伝わった琵琶は、
1000年以上の歴史の中で様々な音楽とそれに適した楽器の形を生み出しました。
その種類には、雅楽で使用する楽琵琶、平家物語の語りの伴奏をする平家琵琶、
九州や中国地方の盲僧が祈祷に用いた盲僧琵琶、薩摩の武士が精神修養のために嗜んだ薩摩琵琶、
筑前博多で創始された筑前琵琶などがあります。
ひとつの楽器がひとつの文化の中で、これほど多岐にわたって展開した例は珍しいでしょう。
本章では、日本で生まれたこれらの琵琶を一堂に展示します。
種類ごとに異なる楽器の形は、各々の演奏の目的で演奏されたのかや、
求められた音の理想がいかなるものであったのかを教えてくれます。

楽琵琶(がくびわ)

雅楽に用いることから、他の琵琶と区別してこのように呼ぶ。唐楽の管絃で使われる。楽琵琶は、中国から日本へ伝わったときの琵琶に最も近い形を残す。柱の上で弦を押さえて音を出すことが特徴。雅楽は奈良時代、専門の演奏家により宮廷での儀式や宴会、寺院での法要などで演奏された。平安時代になると、貴族の間でも琵琶が普及し、雅楽の演目や雅楽以外の独奏曲を自ら演奏して楽しんだ。

平家琵琶(へいけびわ)

琵琶法師と呼ばれる盲目の演奏家が、『平家物語』を語る際に使用した。彼らは当初、楽琵琶で歌や語り物を披露していた。しかし、雅楽の演奏よりもさらに広い音域と多くの音を必要としたため、自分たちの演奏に合う形の琵琶を作ったと考えられる。平家物語の語りでは、前弾き(前奏)と合いの手(間奏)の部分で演奏される。
琵琶法師が平家物語を語る芸能を「平家(平家琵琶、平曲とも)」という。平家は、宮廷や寺院をはじめ、貴族の屋敷や地方の大名の城内などで披露され、室町時代に最盛期を迎える。江戸時代には幕府の儀式で用いられるとともに、茶人や文人など清眼者にも稽古事として愛好された。

盲僧琵琶(もうそうびわ)

九州や中国地方の盲僧(盲目の僧)が、主に宗教活動に用いた琵琶とその音楽を指す。盲僧たちは、寺院での法要や、檀家を回って祈祷する際、琵琶の伴奏で経文を唱えた。檀家を訪れた折には余興として娯楽的な語り物を語ることもあり、その伴奏にも琵琶を用いた。 楽器および音楽は地域により少しずつ異なるが、大きく薩摩系と筑前系に分かれる。柱と柱の間の弦を押さえる奏法が盲僧琵琶の特徴で、薩摩琵琶と筑前琵琶に引き継がれた。また、前弾きと合いの手だけでなく、語りと同時に琵琶を弾く部分がある点は、筑前琵琶に継承されている。

薩摩琵琶(さつまびわ)

江戸時代中期、薩摩地方の武士が自ら盲僧琵琶を演奏するようになったのが始まり※ 。現在のような形になったのは天保年間(1830-1844)以降で、それまでは現地の盲僧琵琶に近い外観をしていたと考えられる。
薩摩琵琶は、先の広がった大きな撥を表板に叩きつけることで生まれる、力強い音が特徴。 明治維新を機に薩摩出身者とともに東京へ進出し、「武士の精神修養のための音楽」として紹介された。政府の富国強兵政策や、当時の戦況に対する世間の関心の高まりとも相まって、明治30年代(1897-1906)には薩摩琵琶の勇壮な戦いの音楽が東京でも人気を集めるようになる。

※室町時代後半の薩摩領主・島津忠良が、盲僧に命じて盲僧琵琶を改良して作ったという説も存在するが、今日は18世紀末頃の説話と捉えられている。

筑前琵琶(ちくぜんびわ)

明治時代半ば、博多の盲僧琵琶奏者であった橘智定(1848-1919)や、芸者として人気を集めた吉田竹子らによって創案された。その演奏には、盲僧琵琶の技法に、薩摩琵琶や三味線音楽の技法が取り入れられている。筑前琵琶の音楽は、型となる旋律が薩摩琵琶よりも多い。
前弾きや合いの手だけでなく、語りと同時に琵琶を弾く部分もある。
橘は「橘旭翁」を名乗り、東京を拠点に筑前琵琶の普及に努めた。故郷の福岡や、関西地方などにも広まり、明治末期には、薩摩琵琶と人気を二分するほど流行した。

筑前琵琶(ちくぜんびわ)五弦

筑前琵琶と薩摩琵琶は元々4弦だったが、後に5弦の琵琶が作られた。橘旭翁とその息子・旭宗1世が5弦の筑前琵琶を創作したのは、表現力の増大を図ってのことである。弦を1本増やすことで、さらに音域の広い豊かな音色を出せるようにした。胴の内部には「渡し」と「柱」という音の振動を胴に伝える部品が付いており、表板が膨らんでいる。これは、薩摩琵琶と共通する特徴で、4弦の筑前琵琶にはない。 5弦の筑前琵琶は、完成当初4弦のものと使い分けられたが、徐々に主流となっていった

錦琵琶(にしきびわ)

薩摩琵琶錦心流の創始者である永田錦心(1885-1927)の弟子だった水藤錦穣(1911-1973)が、師匠の発案で従来の薩摩琵琶を改変し、大正末年に考案した。4弦の薩摩琵琶には、女性の声域に合わせて調弦すると最高音の糸が切れやすいという問題点があった。そこで、弦を1本追加し、たとえ1本の弦が切れてももうひとつの弦で演奏が続けられるようにした。同時に、柱をひとつ足すことで、より高い音が出せるようにした。水藤は、この楽器を使って新たな一派を確立し、女性への薩摩琵琶普及に貢献した。

鶴田流(つるたりゅう)

昭和後期に鶴田流を創始した鶴田錦史(1911- 1995)は、錦心流と錦琵琶の研鑽を土台として琵琶の新たな可能性を追求した。新曲「春の宴」(1963)では、琵琶の弾き語りに西洋楽器の伴奏をつけて大胆な演出を試み、映画「怪談」(1964)の作曲に関わった際には、これまでにない調弦、奏法、歌いかたを生み出した。自身の音楽に合わせて楽器の改変も行い、元々使用していた錦琵琶の柱の形を変えて、決まった音程を出しやすくしたり、弦を太くして低音を強調したりもした。武満徹作曲「ノヴェンバー・ステップス」(1967)の琵琶演奏なども務め、琵琶の人気回復と現代邦楽の普及に大きく貢献した。